アップル スティーブ・ジョブズIII

2011/12/15 23:10

 

 

:ジョブズが青春を過ごした60年代から70年代にかけてのミュージシャンたち。ネット版朝日新聞に「スティーブ・ジョブズが愛した音楽」と題した記事がでている。

この10月に出版された伝記「スティーブ・ジョブズ」のなかで紹介されているようだが、お決まり歌詞のポピュラーソングソングではなく、社会的弱者の立場から政治的抗議メッセージを込めたプロテストソングを歌いあげる知的なミュージシャンを好んだようだ。

一方がIT業界のジョブズなら、彼らもまた音楽業界で一時代を創り上げてきたプロ(芸術職人)たちだ。単にフォークソングの一部門にとどまらず、ロックなど他のジャンルにも多大な影響を及ぼしてきた。

ジョーン・バエズもその一人だ。かってジョブズの恋人だった彼女はメキシコ系の家庭で育ち、兵器開発に協力を拒否する物理学者の父親に影響され、公民権運動や反戦活動に積極的に参加するようになった。60年代フォーク・ブームの象徴的な存在だ。彼女の美しくも力強い歌声は聴衆に真実を問いかけ、世代を超えて共鳴の輪を広げていく。ジョブズの信条と相通じさせるものがある。

その彼女が歌う「勝利への讃歌(Here’s to you)」という曲、1971年に、実話をもとに伊&仏合作で映画化された「死刑台のメロディ」の主題歌だ。

1920年、強盗殺人容疑でイタリア移民の靴職人二人が検挙され、十分な証拠開示や公正な審理が行われずに電気椅子に送られる。当時、全米の移民たちばかりか著名人までも巻き込んで国際的な抗議運動へと発展した。

この実話はマサチューセッツ州サウス・ブレーンツリーにおける「サッコ・ヴァンゼッティ事件」と呼ばれ、米国裁判史上、最大の冤罪事件といわれている。ジョーン・バエズは二人の生前の書置きをもとに作詩したという

 

:以下は朝日新聞「スティーブ・ジョブズが愛した音楽」からの引用である。
ザ・ビートルズ
ジョブズとアップルにとって、ビートルズは二重の意味で重要な存在だった。
一つは、「アップル」の商標をめぐっての裁判の被告として。もう一つは、ジョブズ自ら親しみ、音楽配信サービス「iTunes」への収録を長い間望んでいて果たせなかったミュージシャンとして、である。

ビートルズの著作権管理会社、アップル・コアは「アップル」の商標をめぐって1991年以降数回にわたってアップルを提訴、最終的に決着したのは、2007年のことだった。訴訟終結を受けて、ビートルズ楽曲のiTunesからの配信が始まったのは2010年11月17日のことである。
 

ボブ・ディラン
ジョブズにとってのヒーローであり、海賊版のテープを多数収集するなど、心酔していたのがボブ・ディラン。アップルの共同創設者、スティーブ・ウォズニアックに感化され、二人一緒に海賊版テープを探し回った。

ジョブズの証言によれば、集めたテープは100時間を超え、1965、66年に行われたコンサートの録音は、すべて所持していたのではないかという。
 

ジョーン・バエズ
ジョーン・バエズはアメリカの代表的なフォーク・シンガーの一人。1961年、62年の二度、ゴールドアルバム(100万枚)を獲得している。

 

バエズはボブ・ディランの恋人として、彼を世に出したことでも知られる。バエズはその後ジョブズと出会い、1960年代の初め頃、数年間にわたって交際した。

 

伝記には、バエズの前夫との間の子供、ガブリエルがタイピングを習おうとしていることを知って、発表前のマッキントッシュを見せるシーンがある。ガブリエルにはアップルIIを、バエズにはマッキントッシュを個人的にプレゼントしたという。
(試聴) http://listen.jp/store/trackList_15556.htm


グレン・グールド
伝記著者が第二巻の終盤、音楽について取材したときに、ジョブズがiPad2のプレイヤーで再生してみせた曲の一つ。

 

ジョブズはクラシックの中ではバッハを好み、中でもグレン・グールドの「ゴールドベルク変奏曲」の二つのバージョンを聞き比べるのが好きだった。グールドは「ゴールドベルク」を無名時代の1955年、死の直前の81年の二度録音しており、まるでロックのように激しくグルーブする前者と、静かに盛り上がる後者の聞き比べはクラシック・ファンにはおなじみ。

 

ジョブズは最後の病気療養に入ったころ、著者にこう述べたという。「グールド自身はあとのほうがずっといいと思っていた。僕は若いころの方がいいと思っていた。元気なほうだ。でもいまは、彼がどうしてそう思ったのかわかる気がするよ」
 (試聴)http://listen.jp/store/trackList_16379.htm


ヨーヨー・マ
ジョブズが人間としても音楽家としても尊敬していたのがチェロ奏者のヨーヨー・マ。二人の出会いは1981年、米コロラド州のアスペン。その後ジョブズの自宅を何度か訪れて演奏している。あるときジョブズは演奏の後、こんな賞賛の言葉を口にした。「あなたの演奏ほど、神の存在を示す論拠として優れたものを聴いたことがありません。

 

人間ひとりでこれほどのことができるとは信じられないからです」。ヨーヨー・マはジョブズ自身の依頼で、2011年10月16日、スタンフォード大学内のメモリアル・チャーチで開かれた告別式でライブ演奏を行った。
(試聴) http://listen.jp/store/trackList_73781.htm


参考::音楽サイトからの引用
The Beatles(1960-1970)
http://listen.jp/store/artist_10184.htm
ビートルズ、彼らの存在そのものが地球を丸ごと飲み込んだ巨大な現象だった。ジョン・レノン(g&vo)、ポール・マッカートニー(b&vo)、ジョージ・ハリスン(g&vo)、リンゴ・スター(dr&vo)というリヴァプール出身の4人組は、50年代R&Rを基調としたスタンダードで馴染み深いロックを展開し、空前絶後の大ヒットを飛ばし続けた。また、5枚目のアルバム『ラバー・ソウル』から、特に音楽的に革新性が際立つようになった。66年にリリースされた『リボルバー』で発芽したインド音楽への接近や逆回転テープ録音などの実験精神は、67年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』で一気に開花。コンセプチュアルな視点から、クラシック、インド音楽、前衛音楽などさまざまな要素を取り入れたサイケデリックな音世界を展開した。それでも、彼らの音楽に対する探究心は飽くことなく、68年の2枚組アルバム『ザ・ビートルズ』(俗に言うホワイト・アルバム)では、自らのルーツを再確認するかのようにブルースやフォークを、さらにはスカやハード・ロックにまで手を伸ばし、底なしの創作意欲を発揮した。この頃になると、メンバーそれぞれの個人活動も増え、ジョンとポールの不仲などが取り沙汰されるようになり、69年に事実上のラスト・アルバム『アビイ・ロード』が発表された。およそ10年足らずの活動ではあったが、音楽界のみならず、あらゆる社会現象に大きな影響を与えた功績は、4人という希代の才能(そして5人目のビートルズといわれたプロデューサーのジョージ・マーティン)が地球規模のスパンの中で偶然的に合致した奇跡の産物といえるものである。そして、彼らの「歴史」は、単なる歴史としてそこにとどまることなく、後生のあらゆるバンドやアーティストによって何度も書き換えられ、常に「現在」として生きつづけている。
 
Bob Dylan(1941/5/24 - )
http://listen.jp/store/artist_10126.htm
フォーク/フォーク・ロック界のロンリー・ゴッド、ボブ・ディラン。ライト&メロウなAOR、カタルシス全開のハード・ロック、ダンサブル&スウィートなR&B……といった、いわゆる「使える音楽」から、数千マイル離れた極北に位置し、その孤高の存在感でもって全世界に(私財をなげうつほどの)熱狂的なファン/マニアを数多く有する。ぼくらは何度、彼の“コクのある歌”に救われたことか。ぼくらが彼を敬愛して止まないのは、ひとえに「自己の表現欲求に対する猛烈なまでの真摯さ」ゆえだろう。例えば、保守的なフォーク・ファンから猛烈な罵声を浴びつつも、勇敢にエレキ・ギターを手にして生み出した、65年発表の『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』『追憶のハイウェイ61』、ちなみに当時、ロック・バンドを率いた初のツアーにおいて、名曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」はジミ・ヘンドリックス並みの爆音でカッコよく演奏されたという。そして、ザ・バンドとの魂の交流が生み出した『プラネット・ウェイヴズ』、結婚生活の破綻による苦悩に満ちた『血の轍』などなど(挙げれば本当にきりがない)……。それら至高の作品群に触れれば、彼がいかにシリアスに音楽と向き合っていたか、一目瞭然である。また、メロディ/アレンジは演奏するたび大胆に変更され、熱心なファンでさえその曲が何なのか即座に判断できないらしい。つまり、己にもっともジャストな表現を求めて止まないのだ。現在も依然、輝き続ける生涯現役のロック詩人ボブ・ディラン、この先最高傑作を生み出す可能性は十分にある。
 
Joan C. Baez(1941/1/9- )
http://listen.jp/store/artist_15556.htm
ボブ・ディランと共に60年代フォーク・ブームの象徴である、ジョーン・バエズ。その処女性を秘めた清らかなソプラノ・ヴォイスは、"天使の歌声"と評され、絶大なる支持を得た。弱冠18歳でニューポート・フォーク・フェスティヴァルのステージに立ち、劇的なデビューを飾ったバエズは、翌60年に1stアルバム『ジョーン・バエズ』を発表。これがポップス・ファンをも巻き込む大ヒットを記録し、一躍"フォークの女王"と祭り上げられる。ディランとも親密な交際を重ね、幾度となくステージを共にするなど、フォーク・ブームの推進力となった。70年代には、ロック的なサウンドも取り入れ、幅広い聴衆にアピール。いまも現役フォーク・シンガーとして活動中である。
 
Glenn Herbert Gould(1932/9/25-1982/10/4)
http://listen.jp/store/artist_16379.htm
とてつもない天才ピアニスト。「とてつもない」とは?その演奏を聴けば、その意味は誰にも一目瞭然。リズム/テンポ/アクセントどれもが強烈で躍動感に満ち、痛快とさえ感じられる。「ジャズ風」などと評されることもあるが、もっとも彼にはそういった意識はない。奇抜な新しい演奏を目指したのではなく、作品や作曲家を愛するがゆえの解釈なのである。それは、彼の全生命や限りない愛情が、一つ一つの音に込められているのを聴けば、納得がいくだろう。1932年トロントに生まれ。14歳でトロント交響楽団と共演し、デビュー。55年に、当時誰も取り上げることのなかったバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を弾いてアメリカ・デビューを果たし、57年にはカラヤン/ベルリン・フィルとの共演でヨーロッパ・デビューを飾る。しかし、64年からは一切のコンサート活動を停止、レコーディングに専念することとなった。レパートリーは幅広いが、バッハ演奏はとりわけ高い評価をされており、バッハといえばグールドを思い浮かべる人も多い。また作曲家としても、いくつか作品を残している。夏でも冬並みの支度をして外出したりビタミン剤を常用したりと、健康には異常なほど気を配っていたが、82年、50歳で急逝した。演奏をしながら歌い、体を揺すり(しかも曲に合っているとは限らない)、椅子の高さを極端に下げ、背を丸め、今にも壊れそうな愛用のピアノからは驚くほどデリケートな音色。この独特の世界に魅せられる人は後を絶たない。
 
Yo-Yo Ma(馬 友友、1955/10/7-)
http://listen.jp/store/artist_73781.htm
TV-CMへの出演で、クラシック・ファン以外にもすっかり人気となった、現代を代表するチェリストの一人。傑出した技巧、色むらのない豊かな音色で、叙情に溢れる感傷性、洗練された美しさ、深い表情を、自在に歌い上げている。レパートリーも広く、バロックから現代にまで及ぶが、近年はプロコフィエフやショスタコーヴィチといった近現代のロシア作品に重きを置いているようだ。そしてソロと並行して室内楽にも力を注いでおり、スターン、アックスなどと共演、高評を得ている。その他、クラシックの枠にとらわれず、ジャズ・ミュージシャンや、舞踊家などとも共演、またタンゴ演奏はCFでもおなじみとなり、CDは爆発的な売り上げを記録した。ヴァイオリニストの父とメゾ・ソプラノ歌手の母のもと、1955年パリに生まれる。6歳でパリ大学芸術考古学研究所にてリサイタルを行いデビュー。62年に家族で渡米し、ジュリアード音楽院でヤーノシュ・シュルツ、レナード・ローズに学んだ。63年バーンスタイン指揮のテレビ番組に出演した後、アメリカ各地でコンサート活動を始め、アメリカの主要音楽祭にも参加。77年からはヨーロッパにも活動の場を広げ、ベルリン・フィル、ウィーン・フィルなど一流オーケストラとも共演を果たしている。

 
(続く)
 
 

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アップル スティーブ・ジョブズ II

2011/11/02 02:14

 

 

:ジョブズの遺言ともいえる、2005年6月のスタンフォード大学卒業式でのスピーチ

 

将来をたくす20代の若者たちを前に、彼は人生の節目となった3つのストリーを教訓として話(告白)している。

 

:彼は、1972年、リベラルな州として知られるオレゴンにある全校生徒1500人ほどの文化系単科大学(Reed College)に入学する。

 

この入学は、実母と養親との間で約束されていた。ジョブズを大学に入学させることが養子縁組の条件だった。これを破れば告訴される法的に拘束力がある契約だった。そのため、養親はつましい暮らしの中で息子のために学費を貯めていた。

 

ジョブズはこの事実の上で一端入学するが、なんとなく目的もなく在籍することに居心地が悪くなる。そして養親が一生懸命に蓄えてくれたお金を浪費しているという罪悪感が強くなり一学期で退学する。

 

退学後寮をでて、友人宅に転がり込んで寝起きし、空き瓶を集めては業者に5セントで売るホームレス生活。ここでの自分も、実親に棄てられたという怒りと存在する価値があるのかという自問自答する日々だった。

 

そして将来がみえず悶々とした不安がさらに増幅させていく。ジョブズが友人を誘って、インドに放浪の旅にでるのもこの頃だ。7ヶ月ほど自分探しの旅に出て帰国すると、サンフランシスコにある曹洞宗禅センターで知野(乙川)弘文老師に出会い、禅道の教えを諭される。以来、2002年に老師が遷化されるまで互いの親交は続いていた。

 

:1983年、ジョブズはマーケティング戦略に長けていたジョン・スカリーをペプシコーラからアップルの社長にヘッドハントとするが、1984年にはマッキントッシュのデビューに立会うなど順調に経営が進行するも、次第に対立し始め、退任を要求され取締役会も承認する。

 

1985年、アップルを辞めたジョブズはNeXTを創業する。しかしもっと重要なことは、彼の心にあらわれた変化だった。

 

彼は私生児で生まれた運命に困惑し、養子にだされた仕打ちに対して常に「怒り」を抱えて生きた人生だった。そして頑なに実父母や実妹とあうことを拒否してきた。

 

ところが、ジョブズは1986年初めて実妹にあう決心をする。そして妹を介して実母とも対面する。すでに30年の歳月が経っていた

 

アップルを追放された挫折感が皮肉にも、ジョブズの怒り(心の傷)を癒すことになった。人の心の痛みが分かるようになったのだ。それまでの彼は自己中心的で、粗雑で傲慢な経営者だった。

 

彼の心境の変化は仕事ばかりでなく私生活にもあらわれていた。1991年に歳下のローレン・パウエル(Laurene Powell)と結婚し家庭をもうけている。また過去に、自分と同じ私生児の運命を背負わせ、認知を拒否し続けていた未婚の女性との娘(Lisa)を実子として認知し家族にむかえている。

 

1996年、ジョブズはアップルに復帰する。以前のような経営者ではなかった。生まれ変わったように革新的な商品をヒットさせ、世界のIT産業をけん引し、多くの消費者のライフスタイルを変えた。そればかりか、インターネットを使った情報流通にも変革をもたらし、産業界の構造や商習慣にも多大な影響を与え続けてくれた。

 

:最後は自身の病だ。10月21日付朝日新聞によると、ジョブズは2004年膵臓癌と診断されたが、家族の説得にも摘出手術を拒否し、ハリや漢方の療法を9ヶ月間試みたという。ジョブズはこの9ヶ月間の遅れなければ一命を取り留める可能性があったと、深く悔やんでいたという。 

 

自分に厳しいジョブズだったが、決断を誤った。彼は自力本願の思想が反映された禅文化に馴染んでいたために、ハリや漢方の東洋治療にかけたのかもしれない。大変に悔やまれることである。

 

: アップルは2011年8月10日、ニューヨーク株式市場の終値で、初めて時価総額世界一になった、米エクソンモービルの3310億ドルを上回った。宿敵、IBMやマイクロソフトはすでに前年に抜いている。

 

1976年、ジョブズが4歳年上の親友スティーブ・ウォズニアックウォズと一緒に自宅の車庫ガレージで製作したAppleI(マニア向けのパソコンキット)の誕生から35年,また1980年に自社株式を市場公開(IPO)してから20年で世界のトップにまで登りつめた

 

:1891年、セントラルパシフィック鉄道を設立し、カリフォルニア州知事を務めたリーランド・スタンフォード夫婦は、夭折した息子の記念に、カリフォルニアパルアルトに所有していた広大な牧草地に大学を開学した。それがスタンフォード大学の前身である。

 

その後、大学は広大なキャンパスを有効活用し、敷地内に工業団地を建設した。この団地を礎にIT企業が集積しシリコンバレーを形成していく。

 

そしてまた、スタンフォード大卒フレデリック・ターマン教授が中心となり、産学協同を目的に積極的な企業誘致をはかる。まず、教え子だったデビット・パッカードとビル・ヒューレットを東部から呼び戻し、1939年にヒューレット・パッカード社を起業させ、ゼネラル・エレクトリック、イーストマン・コダックなどの企業が次々と進出してくる呼び水にした。

 

また東部のベル研究所にいたウィリアム・ショックレーは、トランジスタの発明によりノーベル物理学賞を受賞することになるが、独立し育ったカリフォルニアに戻ると半導体研究所をもうけている。

 

そして同研究所にいた若手所員らは更に独立しフェアチャイルドセミコンダクター社を設立している。そしてさらに独立し、ロバート・ノイス、ゴードン・ムーアがインテル(INTEL)を1968年に設立し、その一年後には、ウォルター・サンダースがアドバンスト・マイクロ・デバイセズ(AMD)を設立した。

 

このように、IT企業間のソーシャルネットワーク網が広がるにつれ、従業員を家族のように遇し、チームワークを重視した経営スタイルが徐々に各企業にも受け継がれていきシリコンバレーの企業カルチャーになっていった。

 

:ジョブズが生きた1970-80年代は、北東部ボストンを半円形に囲む環状道路ルート128、別名ヤンキー・ハィウエイが米国のIT産業を代表する地域だった。とくに、デック(DEC)、ウォング(WANG)、データー・ジェネラル(DATA GENERAL)といった大手のミニ・コンピュータ・メーカーが集まっていた。

 

オレンジ果樹林が広がるカリフォルニアシリコンバレーなどは知られていなかった。西海岸での大学卒業生すら、東部での就職を求め移動した。

 

ところが、1990年代、アップルを含むパーソナル・コンピュータの時代が到来すると、ルート128にある大手メーカーはシフトに乗り遅れてしまい、シリコンバレーに主導権を奪われてしまう。

 

米国のノーベル文学賞作家ジョン・スタインベックの小説「The Grapes of Wrath」(怒りの葡萄)では、カリフォルニアは新天地であり、また“乳と蜜の流れる約束の地”でもある。

 

この日本より広いカリフォルニア州には、全米最多の約3700万人が住んでいる。州内総生産額(GDP)は2010年度約1兆9000億ドルで、米国全体の7分の1、国別に比較すると、ほぼイタリアに匹敵する規模だ。いわばカリフォルニア独立国家だ。

 

現在のカリフォルニア州知事は民主党ジェリー・ブラウンだ。共和党の前知事シュワルツェネッガーを破って第34代知事に就任した。1970年から83年まで2期務めており、知事に返り咲いたことになる。

 

ブラウンは48歳のときに来日し、半年ほど鎌倉に滞在し禅の教えを学んでいる。今もサンフランシスコにある曹洞宗禅センターで坐禅修業しており、ジョブズとも知り合いだった。

 

ネット版ウォールストリートジャーナル紙によると、ブラウン知事はアップルが10月16日に、スタンフォード大学のキャンパス内で、ジョブズ氏の告別式を行うのにあわせて、16日を「スティーブ・ジョブスの日」とする事を発表した。

 

ジョブズはまさに、カリフォルニアの自由な風土が生んだ人物だ。日本ではこうした人物の誕生は絶対に期待できない。

(続く)

 

2005年スタンフォード大学卒業式でのジョブズ氏のスピーチ

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アップル スティーブ・ジョブズ I ニュース記事に関連したブログ

2011/10/30 03:48

 

 

 :昨年、フランスで発刊された数十ページの冊子、「怒れ!」(Indignez-Vous!、Time for Outrage)が190万部のベストセラーになり、今年世界30カ国で翻訳され、さらに売り上げを伸ばしているという。著者は第2次大戦中、ヒットラーに占領された仏で対独レジスタンス運動に参加し、捕虜、拷問、強制労働、死刑判決、脱走、あらゆる経験した闘士ステファン・エッセルStephane Hessel。戦後は外交官として世界人権宣言起草に参加した多彩な経歴をもつ94歳のユダヤ人だ。

 

沈黙する大衆にむかって、「怒れ!」と呼びかけている。彼が呼びかける怒りは、反社会的な暴力による怒りではなく、変化への一歩となる怒りだ。だから怒りの声をあげて、積極的に社会との関わりあいをもちなさいと説いている。

 

この9月、カナダの非営利雑誌アドバスターズの創設者カレ・ラースンKalle Lasnらが、インターネットのブログで呼びかけ始まったニューヨークウォール金融街の抗議占拠。エッセルに共鳴し、格差という「社会の矛盾」に対して怒りの声をあげた若者たちだった。

 

日増しに抗議行動の要求を多様化させながら、怒りの声は、全米自動車労組や教職員組合のほか、支持を表明した全米最大1200万人の労働総同盟・産別組合を巻き込んで、全米各地に広がりをみせている。

 

エッセルは日本人が原発事故の対応で東電や政府への不満の声がでていないことを疑問視しながらも、正面から怒りを表明せよ、と訴えている。

 

:米アップル社創業者スティーブ・ジョブズは10月5日に黄泉の世界に旅立った。伝記本「スティーブ・ジョブズ」は24日に世界で同時発売され、この3日間で75万部を売り上げたという。

 

この発売に先立ち、著者ウォルター・アイザックソン
Walter Isaacsonは米CBSテレビとのインタビューの中で、ジョブズの経営スタイルは素晴らしいものではなかったと指摘し、時々とても意地悪だったと評している。

 

ジョブズは生前、マイクロソフト共同創業者ビル・ゲィツWilliam “Bill” Gatesとよく比較されたが、米国人の間では慈善活動に尽力するゲィツよりも人望があった。彼の生い立ちに惹かれるようだ。

 

この同世代の両雄はまったく生い立ちが異なる。ゲィツは裕福な家庭で育ったが、ジョブズのほうは、常に自分の生い立ちに「怒り」を抱いていた。

 

:ジョブズは1955年にカリフォルニアのロスアルトス市で生まれた。だが彼の出生は、決して祝福されたものではなかった。この世に婚外子として誕生し、血縁関係のないポールとクララ・ジョブズ夫婦Jobs,Paul/1922–93 & Clara/1924–86にもらわれていく運命だった。

 

彼の実母ジョアン・シンプソンJoanne Simpsonは当時、ウィスコンシン大学の院生だった。シリア系アラブ人留学生アブドゥルファター・ジャンダーリAbdulfattah Jandaliと恋におちるが、ドイツスイス移民の父親は娘がイスラム教信者と結婚することを許さなかったためだ。

 

しかし養子に出して10ヶ月後、反対した父親が亡くなり、すぐに結婚している。そしてジョブズとは2歳下の妹モナMonaにあたる娘も生まれたが、その5年後には離婚した。

 

もしもジョブズが私生児(婚外子)としての運命を背負っていなければ、父は政治学教授(現在、ネバタ州リオにあるカジノホテルの副社長)、そして母は言語療法士という、ともに大学院卒の肩書きをもつた高学歴の両親のもとで、ゲィツのように裕福に育っていただろう。

 

ところが、神はジョブズに試練を与えた。彼は私生児で生まれた運命に困惑し、養子にだされた仕打ちに対して、「怒り」を抱えていた。この怒りこそ、後々、彼をアップルの創設に向かわせ、数々のヒット商品をクリエイトするための原動力になっていく。

 

だが、幼少・青年期の怒りはまだ社会との接点をもっておらず、純粋に自分の産みの親に拒絶されたという病んだ心の傷から生じていた。

 

:ジョブズは、十代の頃から私生児の生い立ちが劣等感となり、自分の性格を内向きに追い込んでいく。そして人と折り合っていくことが難しくなり、高校を一度、転校している。

 

当時通学していたカリフォルニアのマウンテンビュー市にあるホームステッド高校の教師マッカラムJohn McCollumは、「どこか孤立して(" something of a loner")」、そして「常に人と違ったものの見方をしていた(" always had a different way of looking at thing")」と振り返っている。

 

:一般的に、こういう生徒は怒りの矛先をどこに向けるかで紙一重だ。自分の運命をうらみ荒んでしまうか、それとも100%運命を受け入れバネにするか、のいずれかだ。

 

ジョブズにとって唯一の救いだったのはよい家庭にもらわれたことだ。養親はつましい共働きの労働者階級だったが、息子をとても大切にした。特に夫は、高校中退で学才がなかったが、レーザー製作工場の機械工としてまじめに働いており、息子に初歩的な電気工作や物づくりの楽しみを教えている。また一人っ子の寂しさを心配したためか、息子の妹に一人女の子パティPattiを養女にむかえている。

 

:2005年6月のスタンフォード大学でのスピーチのなかで、ジョブズは大学を中退した後、友達の家に転がり込んで寝起きしながら、コカ・コーラの空き瓶を集めては業者に5セントで買い取ってもらう日々だったこと、また毎週日曜日には温かい食べ物にありつくために7マイル先にあるクリシュナ寺院(貧困者に無料で食事を提供する宗教教団)まで徒歩で通ったことを告白している。

 

(続き)

 

参考:

>知野(乙川)弘文老師<

http://www.sotozen-net.or.jp/syumucyo/j20111018-2.html

http://www.kobun-sama.org/english/bilder.htm

 

 

 

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関連ニュース

さまよえる日本人(6) ニュース記事に関連したブログ

2011/09/30 02:41

 

*

エジプト王の圧政下で虐げられていたヘブライの民はエジプトを脱出し、預言者モーセに導かれながら、シナイ半島の荒野を40年以上もさまよい、主の神ヤハウェが約束した地、カナンにたどりつく。これは旧約聖書の出エジプト記だ。

 

戦後66年が経ちいまだ、政治の民主化にたどり着けずにさまよっている日本人は、ヘブライの民よりも哀れだ。そのうえ、日本の将来をたくす政治リーダーもいない。

 

:ニューヨーク・タイムズ紙元東京支局長で著名なジャーナリスト、ニコラス・クリストフは日本の方向性をだれが決めているのかと問われると、「日本の指導者は、他の諸国のいかなるリーダーと比べても自分から行動を起こすことはまれで、彼らはむしろ状況への対応に終始する」と前置きしたうえで、「日本の首相は、官僚、ビジネス界の指導者、メディア、そして、国民のコンセンサス志向によって牽制されている」と答えている。

 

:菅内閣は退陣した。それが国民のコンセンサス志向だったからだ。在位日数は452日だった。戦後に就任した歴代首相32人のうち19番目の短命だった。しかしこの退陣で、二年前の国民のコンセンサス志向だった「政治指導への変革」は完全に牽制されてしまった。

 

9月17日の電子版読売新聞には、「野田新内閣は、原則として事務次官が出席する連絡会議の役割を拡大し、閣議決定や閣僚間の合意事項などを事務次官に説明し、内閣の意向を各府省に周知、徹底させる場にしようとしている」と報じている。

 

確か、民主党は政権交代の直後、官僚の事務次官会議が政府の意思統一を容易にするという長所の一方、閣議の形骸化をもたらしたとの批判から、「官僚主導」の象徴として事務次官会議を廃止したうえで、「政治主導」の行政運営をめざすと宣言したはずだ。

 

結局、自民党政権時代に後戻りだ。この国では誰が首相に就こうとも、どの政党が政権を担おうとも、そこに腐りきった政治家どもがいる限り変わらない。米国のように外部の優秀な人材を登用して政治を混血化していくしかない。このままでは政治リーダーも生まれない。

 

:前出のニューヨーク・タイムズ紙東京支局長クリストは、「国家的な課題が、往々にして世論に影響を与えるような予期せぬ事件によって形づくられるために、政治家の選択肢も自ずと制約されてしまうのだ。事実、戦後日本を形づくった主要な力学は、政治や政治指導者の手腕によるのではなく、「経済ブーム、都市化、人口構成や女性の地位の変化」がつくりだしたものだった」と解説している。

 

:昨年、電子版朝日新聞に、「東大出身なのに相当頭悪い..与謝野氏、鳩山首相を批判」という記事がでた。新党「たちあがれ日本」の与謝野馨共同代表は番組収録で、東大工学部卒の鳩山由紀夫首相について「東大出身のはずなんだけど、相当に頭が悪い」という内容だ。

 

これは与謝野の認識不足だ。前首相鳩山は米国スタンフォード大学で博士号を取得しているわけだから、「スタンフォード大学出身なのに相当頭が悪い」と発言するべきだった。要は、スタンフォード大は世界的な大学だが、東大はあくまでも日本の大学だ。この程度の学力嗜好の大学は米国にはいくらでもある。

 

:米国の東海岸シリコンバレーにあるスタンフォード大学は、ヤフー社ジェリー・ヤン、そしてグーグル社ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンらの母校だ。彼らは大学(大学院博士課程)在学中に起業し、自社株をナスダックに公開し、投資家から1億ドル以上の資金を集めた実業家連中だ。そのうえ、年俸1ドルで働いている経営者でも知られている。

 

彼らのほかにも、例えば、25歳でフォーブス長者番付に載ったアップル社スティーブ・ジョブズ、オラクル社ラリー・エリソン、エヌビディア社ジェン・フアン、それにシスコシステムズ社ジョン・チャンバースなども年俸1ドルの経営者たちだ。なかにはストックオプションの権利も放棄している。

 

また、サブプライムローン問題で経営危機に直面し、米国政府の管理下で経営再建が行われることになった保険会社AIGそれに自動車メーカーGM、クライスラー、フォードの役員ら、また銀行シティグループの最高経営責任者ヴィクラム・パンディットの年俸も1ドルだ。

 

米国のオバマ政権は、金融危機で巨額の公的資金を受けた米企業の役員ら高額所得者に対して、報酬を平均で前年比90%、ボーナスを含めた総報酬額を平均50%削減するように要求した。

 

原子力損害賠償支援機構法が成立し、東電に資金(税金)支援が始まるわけだが、首相野田も米国オバマ政権にならい、東電の会長勝俣以下のトップ経営陣を即退場させ、新トップ経営陣には年俸1ドルで奉公させることだ。

 

また米国には、大戦時の国難に、俸給1ドルで政府に協力した、「Dollar-A-Year men」と呼ばれた経営者たちがいた。

 

日本の国難の非常時あっても、互いに復興にむけ協力することもなく争っているバカ与野党議員たち、俸給1ドルで十分である。とにかく、何か、こいつらに罰を与えなければ、怒りがおさまらない日本人も多いいはずだ。

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2011/09/22 01:15

 

:米国では連邦議会の承認を勝ち得た閣僚などの指名候補者たちは、次に大統領から任命をうける。そして大統領府に集結し、大統領に忠誠を誓い、大統領と運命を共にする。大統領が再選に失敗すると全員が失職するためだ。
 
だから、自分達の職務の成功は政権の成功につながり、自分達の失政は再選失敗に帰着する。職を賭して仕事をすることになる。

 

 

大統領にとっても、4年という確定した任期の中で、強力なリーダーシップを行使するための条件が備わったことになる。すなわち、自分に対する忠誠心がきわめて高い有能な直属部下と自分を制度的に支えてくれる強力な組織だ。

 

さらに、この3千人を越す大統領府の基幹組織を8千人近い側近組織(資格任用の課長級以下の一般職業公務員)の裏方が支援する

:日本の首相官邸はどうだろうか。自分達の手足になる有能な部下も助言をえるためのシンクタンク組織もない。与党(政策調査会)と官僚(事務次官会議)の狭間を飛び交う伝書バトの政務三役のみだ。

 

このため与党に対して、首相は独立して指導力を発揮できない。そればかりか、与党が抵抗すれば法案の通過は困難だ。
 
また官僚に対しても、本来、首相は行政トップでありながら、既得権の削減を試みようものなら、激しく抵抗される。

 

行政官僚の忠誠心は日替わり首相にあらずして、あくまでも自分が一生を過ごす省内の職場組織に対する帰属意識だ。
 
米国の大統領が政権の移行過程で検証チームを立ち上げて、前政権の政策実績と課題を検証させることなど、日本の官僚組織においてはタブ-だ。
 
前政権内閣とはいえ、自分達の先輩官僚が立案した政策、それを検証してなみかぜ立てれば、本庁から地方にとばされ、定年後に約束された先輩の天下り先に再就職できなくなる。
 
:1991年に亡くなった政治学者辻清明は、明治時代以来の日本における官僚機構の特質を研究し、その構造的特質の一つとして「強圧抑制の循環」という見解を表明した。
 
“戦前において確立された日本の官僚は支配・服従の関係が組織の中核を成し、その組織内部において部下が上司の命令に服従するのと同様に、日本社会では官僚(軍人)への国民(臣民)の服従を強要する「官尊民卑」の権威主義的傾向を有していた”とする説である。
 
さらに、“この社会的特質は戦後の民主化改革の中でも根強く生き残り、政治的な民主化への阻害要因になっている”とも指摘している。
 
戦後66年がたった今、そしてあの中近東ですら民主化運動が進むなか、日本の民族だけは政治の民主化から取り残されている。
 
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2011/09/18 00:53

 

 

:米国の大統領が直面する候補者選びのジレンマは、個々の最適な選択が全体として最適な選択となりえるかどうか、だった。そして歴代の大統領はこのジレンマを自らの強い信念と候補者への信頼で解決してきた。このジレンマこそが、米国の「政治の質」と「政治家の資質」を高めてきたのである。

 

例えば、大統領オバマにとっては、ジレンマを解くカギは「世界観の共有」だった。オバマは、少年時代の4年間をインドネシアで過ごしている。また政治エリートたちのほとんどが外国での暮らしを経験している。

 

内政担当の大統領補佐官バレリー・ジャレットはイランで生まれて、幼少期をイランで過ごした。国家安全保障問題担当の大統領補佐官ジェームズ・ジョーンズはイラク政策を強硬に批判した元軍人だが、やはり少年時代をフランスで過ごした。財務長官ティモシー・ガイトナーもまた、インドやタイで育った。

 

大統領オバマは、候補者たちが幼年期に多様な背景をもつ人々のなかで暮らしながら、米国を外から見ることで培った見識と感性を、自身のものと共有させることで、ジレンマを解く大きな手がかりにした。

 

彼らの見識と感性は、文化、宗教、価値観の異なる多民族社会にあって、異なる考え方があることを認め、よりオープンな姿勢で物事とらえようとする世界観だった。

 

:日本の閣僚人事はどうだろうか。首相選び同様に儀式だ。繰り返すが、1955年に自民党が結成されて、一時期の例外(細川連立内閣)を除き、自民党一党優位の政権が続いてきた。

 

この間に自民与党は、裏では、党と行政官僚との相互依存の関係を深めて政策立案を彼らに外注し、表では、内閣と党の二元体制を敷き、「法案は閣議を経て国会に提出し与野党で審議される」という本流を、「法案は閣議を経て国会に提出される前に必ず与党内の了承を取り付けること」に変えてしまった。これが事前審査の慣習化だ。

 

このため、与党にとっては、国会での議論など必要がなくなり、国会審議そのものを儀式化させた。さらに党の指導力がまし、首相や閣僚などは、官僚におんぶされて気の利いた答弁さえできれば日替わり「ド素人」で勤まるようになった。

 

そして今月組閣人事したばかりの野田内閣で早々と、日替わりド素人の第一号がでた。辞職した経済産業相鉢呂吉雄だ。第二、第三の日替わりド素人に財務や防衛の大臣あたりがあぶない。

 

:こうして大統領の信頼を勝ち取った候補者たちだが、大統領はすぐに任命することができない。大統領が指名する政府高官の人事には議会上院の審査と承認が必要だ。

 

そこで大統領は、独自にチェックリストを準備させ、候補者一人ひとりの適格性を事前に調査する。そして議会からの厳しい倫理上の審査に備える。これには多くの時間と労力を要する。

 

だが、事前に対処することで、議会の不承認を免れた高官候補者もいる。オバマ大統領の側近、財務長官ガイトナーはその一人だった。過去の納税漏れと家政婦が不法就労だった事実が発覚した。そのため議会上院本会議での採決の結果は承認されたものの、三分の一の反対票がでて全員一致にはならなかった。

 

:この事前調査チームとは別に大統領はまた、「Agency Review Team(検証チーム)」を立ち上げる。目的は前政権の政策実績と課題を検証させ、自分達の新政権の人事や政策立案に反映させるためだ。オバマ政権では135人が10のチームに分かれて実施したという。

 

この検証では、前任者の政策の誤りなどが発見されると公表の対象にされた。前任者は前政権が指名・任命した人材だから、公表に躊躇いはない。むしろ、米国の情報公開の精神と結びついている。

 

ちなみに、米国には情報自由法があり、機密文書の公開規定日は原則、25年だ。だが、その前に非公開資料の閲覧を審査請求することもできるし、機密解除しなかった前政権の政府機関を新政権が調査などを行う。それが大きな政治的得点にもなりうるからである。

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2011/09/10 02:01

 

 

:米国では、四年ごとの選挙で当選した大統領が四年間政権を務めることになる。そして米国の大統領制のもとでは、任期の終了時が政権交代となる。大統領が失職しても副大統領が昇格するので、政権交代にはならない。不信任決議による辞職も議会の解散もない。

米国ではまた、党員が政党内での大統領公認候補選びに深く関与し、候補者も各地で住民との討論会を重ねながら、自分の言葉で政策を熱く説いてまわる。それをメディアが長期にわたって報道し国民が「評価」を下す。まさに大統領選は全米の国民を巻き込んだ政治ショーだ。

 

一方、日本の首相選び(代表選)は茶番ショーだ。米テレビ番組CNNの大統領候補者討論会をパクッテはいるが、候補者たちは飲み友達のような、仲間うちの「評判」をもとに推薦されており、日本人が得意とする馴れ合いの談合だ。このため、日本では米国、長期遊説など流行らない。選出までの日程は数日で十分だ。

 

過去にはショーにもならいギネス級の茶番があった。2000年第85代首相森喜朗の誕生のときだ。当時の自民有力議員五人衆が順天堂大学病院の病室にそろい、脳梗塞で倒れ脳死状態にある首相小渕の前で、後継総理を数分の密談で決めてしまったという。

 

:選挙に勝つと米大統領はリーダーシップを発揮し、高級管理職の候補者を絞り込んでいく。とりわけ、大統領の政権中枢を固める政治エリート(長官・副長官等の閣僚・準閣僚)は重要だ。だから、大統領自らが政治エリートの候補者を指名する。この人選に失敗すれば、政権の命取りになるからだ。

 

高級管理職の候補者たちは民間企業、法律事務所、教育機関、非営利団体シンクタンクなどの外部組織から登用される。豊かな実戦経験と卓越した専門能力をもちあわせた人材であることが条件だ。特に、政治エリートには、この条件のほかに、大統領との円滑な意思疎通はもとより、政策の骨組みを構築していく過程(政策プロセス)における他の高官との円満な意思疎通も要求される。

 

ハルバースタムの著書「最良で最も聡明な人たち」の中のマクジョージ・バンディとウォルト・ロストーは対照的な二人だった。バンディは、若干34歳でハーバード大学の学部長に選出された頭脳明晰だったが、ケネディ政権で国家安全保障担当大統領補佐官に任命されると、国防長官マクナマラとともにベトナム戦争への積極的な介入を大統領に助言した。そして情報の扱いについては、戦争の全貌を隠さずに正直に国民に伝えるべきだと考えていた。だが、ケネディ暗殺後のジョンソン政権下では、情報が漏洩し自分の立場が脅かされることを嫌った大統領との折り合いが悪く、ついには決裂してしまった。

 

一方、バンディの後任を担ったロストーはマサチューセッツ工科大学で教鞭をとり、「take-off model」(離陸説)と呼ばれる独自の経済発展段階説を組み立て、経済史の議論にも影響を及ぼすほどの優秀な経済学者だったが、自分の離陸説を南ベトナムの国家建設で実証させようと試み、ベトナム戦争への関与継続に疑念を差し挟むことはなかった。バンディよりも大統領ジョンソンとの相性もよかったが、戦争に疑念を持つ高官の意見を無視しがちになり、政権の他の高官からは信頼されず、たえず対立に苦しんだ。これこそ、米大統領が直面する候補者選びの「ジレンマ」だ。

 

日本では、1955年に自民党が結成されて以来、一時期の例外(細川連立内閣)を除き、2009年までの長期にわたって自民党一党優位の政権が続いてきた。

 

この間に自民与党は、裏では、党と行政官僚との相互依存の関係を深めて政策立案を彼らに外注し、表では、内閣と党の二元体制を敷いて、官僚に外注し出来上がってきた法案が閣議を経て国会に提出される前に、与党内の了承を取り付ける事前審査を慣習化させた。

この事前審査で自民党としては国会で議論する必要がなくなり、国会審議そのものを儀式化させてしまった。

 

この内閣と党との指導力の逆転で、内閣までも形骸化し、飾雛となった閣僚などは気の利いた答弁ができさえすればよくなった。

 

米国の閣僚候補の基本条件とされる「優れた実戦経験や卓越した専門能力」など日本の政治には異質な要求だった。党派間での組み換えが簡単な「ド素人」で十分に閣僚がつとまった。

 

たとえば、菅内閣下で大臣だった海江田と与謝野の両者を米国の代表的な閣僚と比べても、そのド素人ぶりが明らかだ。とても経済大国三位の国の経済の舵取りを委ねるような器の人材ではない。

 

日本の経済産業大臣と経済財政担当相だったこの二人、実務経歴は皆無だ。前職はともに議員秘書。海江田は、政界入りした元タレント野末陳平が結成した税金党の影響をうけ、テレビで税金の解説をしていたタレントだ。一方の与謝野は中曽根康弘の議員秘書。前は商業用原子力発電所を持つ卸電気事業者(株)日本原子力発電サラリーマンだった。

 

一方、クリントン政権下の財務長官ルービンは、ゴールドマン・サックス会長から任用され、財政の均衡、貿易政策のグローバル化、アジアやロシアの金融危機への対策、レーガン・ブッシュ政権以来の負の遺産である財政赤字の削減など、米国の最重要政策決定に先導的な役割を果たし的確な政策運営により、グリーンスパン連邦準備理事会議長と並ぶ、米経済繁栄の立役者と評価された。退任後もシティグループの会長に就任した。

 

またオバマ政権下の財務長官ガイトナーは、元米国務長官ヘンリー・キッシンジャー率いる民間コンサルティング会社から財務省に入省。クリントン政権の財務次官としてアジア通貨危機の収拾に当たり、ブッシュ政権下ではニューヨーク連銀総裁として金融危機対応に奔走するなど、金融・経済の要職を歴任した後、経済再生が喫緊課題となるオバマ政権の即戦力として閣僚に就任した。

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2011/08/30 00:20

 

 

 

 ノーベル賞はスウェーデンの化学者の遺言と遺産基金による世界的な賞だが、米国には新聞経営者ピュリッツァーの遺言により設けられた権威ある賞がある。

 

米国の著名ジャーナリスト、ハルバースタムは、この賞の活字報道分野における受賞者の一人だ。ニューヨーク・タイムズ紙の記者としてベトナムに赴き、ベトナム戦争を取材した。

 

その体験をもとに書き上げた著書「the Best and the Brightest」(最良で最も聡明な人たち)の中で、いかに彼らが米国ベトナム戦争の泥沼に引きずりこんでいったのか、その経緯を政権の内情を絡ませながら克明に描いている。

 

彼らとは、ベトナム戦争を始めた大統領ケネディと、ケネディ暗殺後に政権を継いだ副大統領だったジョンソン、そして両政権下、安全保障政策にかかわった閣僚や大統領補佐官たちだ。

 

なかでも国防長官マクナマラは政権中枢の人物だ。ベトナム戦争ではホワイトハウスから制服組を指揮する司令官として大きな役割を演じた。

 

マクナマラは数学に秀でており、第二次大戦に従軍すると、東京大空襲の指揮をとったカーチス・ルメイ米空軍少将の下、数理システム解析を対日戦略爆撃機B-29や武器の生産作戦計画に応用させ、費用対効果による効率的な大量生産を進めて、大きな戦果を挙げた。

 

大戦後入社した自動車企業フォードでも、経営分析や管理などに辣腕を振るい、社長に抜擢されるや、経営難のフォードを再建させた。

 

こうした華やかな実績を引っ提げて44歳で政界入りした後も、冷戦下、米国の国家安全保障上の重大な危機で大きな役割を果たしたが、ベトナム戦局の拡大・泥沼化による失策から内外の批判を浴びる結果となった。大統領ジョンソンとの軋轢もあり、辞任後には、世界銀行総裁に就任した。

 

毎日新聞の記事によると、マクナマラは1991年の来日時、京都市での講演でベトナム戦争について「私は間違っていた」と語っている。また回顧録「Tragedy and Lessons of Vietnam」(ベトナムの悲劇と教訓)でも、自らの過ちを告白し、世界中で論争の波紋を呼んだ。

 

ハルバースタムにとっては勝利だ。小国ベトナムの社会主義革命が東南アジアの共産化に波及していくというドミノ理論のもとで集結した「最良で最も聡明な人たち」。

 

こうした政治エリートたちの内情を暴き世論に訴えたことで反戦の輪が広がり、マクナマラの告白につながった。まさに英国の小説家リットンの戯曲の中での言葉、ペンが剣に勝ったのだ。

 

:企業のビジネスリーダーを育成する教育機関として、ビジネススクールがある。ここでの教育は、ケースメソッドが中心だ。いわばロースクールでいう過去の判例ケースの分析・学習と似ている。

 

人格の与えられた企業がいかに成長し、そのトップはいかに意思決定をせまられたのか、財務、行政、経済、マーケティング、組織行動、人的資源管理などの立場から分析し、クラス討論を交えながら、トップリーダーの意思決定(decision making)のありかたを机上で実践していく。

 

UCバークレー校(経済学士)と、ハーバード大大学院ビジネススクール(MBA、経営管理学修士号)で学んだマクナマラにとっては、ベトナム戦争はケース・スタディに過ぎなかったのだろうか。

 

もう少し分析に人道的な命題を加えておけば、第二次大戦をはるかに越えた動員兵力や死傷者数を防げたかもしれない。

 

:ところで、日本はどうだろうか。マクナマラのような特出したリーダーがでる素地があるのだろうか。

 

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さまよえる日本人(1)

2011/08/28 01:46

 

 

part:1/3

2011/8/26,28:読売・朝日新聞
原発事故のセシウム137、広島原爆168個分

http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110826-OYT1T00982.htm

http://www.asahi.com/international/jinmin/TKY201108280138.html

(引用)
:日本の経済産業省原子力安全・保安院は26日、福島第1原発1--3号機から事故後に放出されたセシウム137の量は広島原爆の168個分に相当すると発表した。セシウム137の半減期は約30年なので、長期的影響が懸念されるとしている。

 

:このほかヨウ素131(半減期約8日)は16万テラベクレルで広島原爆の2.5個分、ストロンチウム90は140テラベクレルで広島原爆の2.4個分としている。ストロンチウムは人体に入ると骨に蓄積される。

 

:保安院は細野豪志原発担当相の名で衆院科学技術・イノベーション推進特別委員会に今月中に提出する資料で「原爆との単純な比較は合理的でない」とも指摘。保安院の森山善範原子力災害対策監は「一瞬で核分裂し、衝撃波をもたらす原爆と、原発事故後の放射性物質漏れは状況が大きく異なる」と指摘する。

 

part:2/3

2011/8/26:読売新聞
津波試算、副社長に報告…東電取締役会議論せず
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110825-OYT1T01165.htm

 

2011/8/24:読売新聞

東電、福島第一で高さ15mの津波予測…想定外主張崩れる

http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110824-OYT1T00991.htm

(引用)

:東京電力が東日本大震災の前に、福島第一原子力発電所に従来の想定を上回る10メートル以上の津波が到来する可能性があると2008年に試算していたことが政府の事故調査・検証委員会で明らかになった問題で、東電は同じ試算で高さ15メートルを超える津波の遡上(そじょう)を予測していたことが24日わかった。  

 

:大震災で同原発は、14~15メートルの津波に襲われたが、「想定外の津波」としてきた東電の主張は、15メートル超の遡上高の試算が明らかになったことで崩れた。

 

:東電は試算結果を津波対策強化に生かさず、大震災4日前の今年3月7日に経済産業省原子力安全・保安院に対し報告していた。

 

:東電によると、国の地震調査研究推進本部が02年7月に新たな地震の発生確率などを公表したのを受け、東電は、08年にマグニチュード(M)8・3の明治三陸地震(1896年)規模の地震が、福島県沖で起きたと仮定して、福島第一と第二の両原発に到達する津波の高さを試算した。

 

2011/8/24:読売新聞

東電福島原発、2008年に「津波10m」試算

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110823-OYT1T01155.htm

(引用)

:東電は、土木学会が02年2月にまとめた指針「原子力発電所の津波評価技術」に基づき、福島県沿岸部に津波を引き起こす地震は1938年の「塩屋崎沖地震」が最大級だと仮定。

 

:同原発での津波の高さを最大5・7メートルと計算し、冷却水(海水)をくみ上げるポンプの電動機の位置をかさ上げするなどの対策を取ってきた。

 

:(ところが)東電が、同原発に従来の想定を超える10メートル以上の津波が到来する可能性があると2008年に試算していたことを、政府の事故調査・検証委員会(委員長=畑村洋太郎・東大名誉教授)に説明していたことが分かった。

 

:東電はこの試算結果を非常用ディーゼル発電機の位置を高くするなどの津波対策に結びつけていなかった。速やかに対策が取られていれば、今回の事故被害を小さくできた可能性もあり、事故調は詳しい経緯を調べている。 

 

2011/7/8:読売新聞

福島第一原発の津波は13m…6か所から集中

http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866921/news/20110708-OYT1T00927.htm

(引用)

:東電の分析によると、第一原発では、地震発生から約26~30分後に、沖合約30キロ・メートルの地点で6か所の断層の破壊に伴って発生した津波が次々と重なった。その後、津波は水深が浅くなるにつれて高さを増し、海岸に押し寄せた51分後に13・1メートルに達した。

 

2011/6/7:読売新聞

原発事故調が初会合、年内めどに中間報告

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110607-OYT1T00491.htm

 

2011/5/24:読売新聞

原発事故調設置、委員長に「失敗学」の東大名誉教授畑村洋太郎氏(70)起用

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110524-OYT1T00256.htm
 

2011/4/10:読売新聞

第一原発、津波で5m浸水…高さは最大15m

http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110409-OYT1T00724.htm
  

2011/3/19:読売新聞

津波は想定以上、揺れは想定内…福島原発

http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110319-OYT1T00154.htm

(引用)

:東日本巨大地震で被災した東京電力福島第一原子力発電所で記録した揺れの最大加速度が、経済産業省原子力安全・保安院が同原発の耐震安全の基準値として認めた数値の4分の3に過ぎない448ガルだったことが18日、わかった。

 

:地震の揺れは想定内だったが、高さ6メートル以上とみられる想定外の津波が、原発の安全の根幹に関わる機能を喪失させた可能性が高い。

 

part:3/3

2011/8/27:毎日新聞
北海道電力:やらせ認める…道知事、詳細な調査要求http://mainichi.jp/select/today/news/20110827k0000m040134000c.html
 

 

2011/8/26:毎日新聞
北電:08年シンポでやらせ指示 共産党が指摘 
http://mainichi.jp/select/biz/news/20110826k0000e040071000c.html

 

2011/7/29:毎日新聞
保安院:中部電に「やらせ質問」要請 プルサーマルシンポ
http://mainichi.jp/select/biz/news/20110826k0000e040071000c.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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さまよえる日本人

2011/08/22 00:43

 

終戦から数えて66年目の夏

 

 

 

* 2011/8/6/21:00-21:58 NHKスペシャル総合テレビ
「原爆投下/いかされなかった極秘情報」

http://www.nhk.or.jp/special/onair/110806.html

(引用)
広島・長崎あわせて20万を超える人々の命を奪った原子爆弾。これまで日本は、アメリカが原爆攻撃の準備をしていることを知らないまま、“想定外”の奇襲を受けたとしてきた。

 

しかし実際は、原爆投下に向けた米軍の動きを事前に察知していたことが、新たな証言と資料から明らかになってきた。

 

日本軍の諜報部隊が追跡していたのは、テニアン島を拠点に活動するある部隊。軍は、不審なコールサインで交信するこの部隊を、「ある任務を負った特殊部隊」とみて警戒していたのだ。

 

8月6日、コールサインを傍受した軍は、特殊部隊が広島に迫っていることを察知。

 

しかし、空襲警報さえ出されないまま、原爆は人々の頭上で炸裂した。そして9日未明、軍は再び同じコールサインを傍受、「第2の原爆」と確信した。

 

情報は軍上層部にも伝えられたが、長崎の悲劇も防ぐことはできなかった。

 

番組では、広島・長崎への原爆投下を巡る日本側の動きを克明に追う。情報を掴みながら、なぜ多くの人々が無防備のまま亡くならなければならなかったのか…。原爆投下から66年、その問いに初めて迫る調査報道である。

 
* 2011/8/12/10:00-10:49 NHKスペシャル総合テレビ:
「玉砕 隠された真実」

http://www.nhk.or.jp/special/onair/100812.html

(引用)

生きて虜囚の辱めを受けず」戦陣訓に則り、全将兵が死ぬまで戦う「玉砕」。

 

昭和18年5月、アリューシャン列島アッツ島における日本軍守備隊の「全滅」がその始まりとされる。

 

部隊の全滅を「玉砕」という言葉で大々的に発表した大本営。しかしそこには隠された意図があった・・・。アッツ島を境に「玉砕」は各地の戦場で頻発、戦死者は急激に増えていく。

 
更に、戦局が悪化すると、「玉砕」は大本営の報道によって「一億玉砕」として、一般国民に対しても広がり、最終的に310万人の犠牲者につながっていった。

 
死を目的とする攻撃「玉砕」はなぜ引き起こされていったのか-。

 

求めていった過程を、新資料と証言をもとにつまびらかにする。番組では、アッツ島守備隊の「玉砕」をきっかけに、大本営が「全滅」を「玉砕」と美化し、国民にも「死」を求めていった過程を、新資料と証言をもとにつまびらかにする。

 

 

* 2011/8/20,21/15:00-18:00 NHK-BSプレミアム
「証言記録/日本人の戦争前編・後編」

http://www.nhk.or.jp/shogen/schedule/sp_110820.html

(引用)
NHKでは、太平洋戦争開戦から70年の今年を目指し、戦争体験者への取材を続けてきた。

 

これまで収集した証言は700人を超え、太平洋戦争における主要な戦場の実態を記録してきた。

 

日本人だけで310万人という膨大な死者を生み出した、昭和の戦争。

 

番組は、収集してきた元兵士と市民の声を、時系列に沿って立体的に再構成し、日本人が体験した昭和の戦争の全貌を記録しようとするものである。

 

前編は、太平洋戦争前史の日中戦争の開始から昭和19年7月頃まで。後編は、全戦没兵のほとんどが集中したとされる昭和19年7月から敗戦までの1年間を描く。

 

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